「説明すること」に感じる躊躇
わたしにはわかる。その人の足の痛みが
ストレッチによって解消するのか?安静にすることで治まるのか?
わたしにはわかる。その人が話すのは
聞いて欲しいからなのか?自らに言い聞かせているのか?
外に向かいたいのか、内側でゆっくりと休みたいのか?
差し出した手は 心を開いて歩み寄ろうとしているのか?
何らかの策略のためなのか?
何も話さなかったとしても、その人の持つエネルギーは
言葉よりも雄弁に様々なことを語ってくれる。

この「わかること」は私にとって
特別でも何でもない 通常の感覚のことである。
人に驚かれたり 時には怖い言われることもあるが
どうもこうも、これが私なのでどうすることも出来ない。
一時は、これをギフトと思い、仕事に活かせるかもと頑張った。
しかし 前途はいつも多難な方向へと向かった。
これは たんなる感覚の相違であって ギフトでも何でもない
と気づくのには10年以上の時間を要した。
モチロン今までも 相手を否定して、こうしなさいと強制した
覚えは一度もない。
そして 今では、見えた世界を解説することもやめ、
アドバイスと称したお節介も程ほどにしようと努めている。
この先も その感覚を求められた時にだけ
自らの体裁などを気にせず、インスピレーションと共に、
伝えられるようになった時、そういった世界の扉が開くのだと思う。

トリプルアクセルを飛べた人にしか分からない世界があって当然で、
ジャンプ台から 空中に飛び出す快感の素晴らしさをいくら聞いても
私には恐怖にしか感じられないように・・・
人それぞれ考え方も 感じ方も違う だからこそ
人間関係って面白いし いろんな価値観を楽しむことが出来る。
それなら、この「私が勝手に分かってる世界」を
言葉に置き換えて説明し、うまく伝わっているだろうか?
エネルギーの世界を分かって頂けただろうか?と
常に心配していた自分は、一体何だったのだろうか・・・
今更にして この頃 頓にこの考えが浮かび上がってくる。
私は石が持つエネルギーの素晴らしさに魅せられ
またその石を感じているときに浮かび上がってくるメッセージに
心奪われることが大好きで、今に至っていたはずである。
それなのにいつの間にか なにか得体の知れない
使命感に燃え、 この素晴らしいエネルギーの世界を
言葉に翻訳し しっかりと皆に説明し伝えなければならない
などと 思ってしまっていた。
「しなければならない」ではなく、「やりたい」から
始まったことだったのに・・・・
私は自分の好きなことに、とことん入り込むことが好きだ。
それは 石のことも 自分の知らないことを探求することも
また 趣味の手仕事に没頭したり、何かと創意工夫したりと
好きなこととなると寝食を忘れてしまうほどだ。
つまり突き動かされるように沸き上がったインスピレーションを
諦めることは無理に近いほど突発的な人生を送って来た。
人と違っていようが 一般社会からずいぶん外れた
暮らしであろうともこれが私だから仕方がない。
好きなことがいつのまにか仕事になっていたけれど
自分の世界でしかない「感覚」というものを
世間一般的なラインに合わせて語ることは
本来なら不可能なほど難しいことである。
それなのに 私は自分の沸き上がってくる思いよりも
世間一般のニーズに応えようとして苦しんだ。
そんな基準はどこにも存在しないというのに・・・
石が持つエネルギーツールとしての素晴らしさを
皆様に知っていただきたいという思いが
もしかしたら少し執着になっていたかも知れない。
だから書けないと、追い込まれているような
気がしていたのかも知れない。
エネルギーに関して 自分が感覚的に思うことは
自分の目線から見たら絶対だけど
大きな視点からみたら 絶対なことなど何もない。
妄想を追い続けるのも 追いかけられているように
感じていたことも 全て 外側の世界からの
アクションに盲信的に巻き込まれていたに過ぎない。

もう説明と称した、言い訳はやめて
もっと 感覚的に 書きたいと思うことだけを
突拍子もなく綴られるようになったら・・・
そこには 本当に喜びしか残らないのではないか?
今日のブログは 早速 この突飛で うざいほど
ダラダラとした内容を 自らの気づきと共に綴ってみた。
これからも 自分に嘘をつかず 面白いと感じることを
淡々と語って行けたらいいなと思っている。
Mama Sophie